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​「ありがとう、まな」

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2021年度 エピソードアワード「障害とは何か?」準グランプリ受賞作品

※主催者に許可をとって全文掲載しております

タイトル 「ありがとう、まな」
 

2021年春、幼稚園の卒園式、娘は一人で歩いて卒業証書を先生から受け取った。
途中、道に迷いながらも、園長先生がいる演台まで誰の力を借りることなく笑顔で歩い
て行った。その姿を見た私と夫は、これまでの娘との軌跡が走馬灯のように流れてきて涙
が止まらなかった。


一人で歩いた娘は全盲児である。
 

2014年4月17日、高槻市の個人病院で娘は元気な鳴き声と共に誕生した。「おめ
でとうございます。元気な女の子ですよ」無事に出産することができた私は、幸せに満ち
溢れていた。これから育児が始まるのだという楽しみで胸が高鳴っていた。
最高に幸せな瞬間を噛みしめながら出産の疲れで眠りについたその直後、私の個室の電話
が鳴った。

先生から呼び出された。その時言われた瞬間は、今でも鮮明に思い出せる。
「目に何らかの異常があります。」と。

出産直後で朦朧とした意識の中、娘の目をよく見ると、あるはずの黒目が見えない。

目が真 っ白である。「こんな症状、見たことがない」焦りを隠せない先生を見て嫌な予感が
止まらなかった。すぐに詳しい検査をすることになった。12時間後、判明した病名は世
界でも極めて珍しい「先天性角膜異形成」「先天性小眼球症」今まで聞いたことがない病
名ばかり。現在の科学を持っても未だ発生原因は不明で治療方法は特にない。この告知を受けた瞬間、私は奈落の底に突き落とされた。「私の子供は目が見えない」事実に呆然・絶望・体が凍るなどの日本語表現では足りないくらい目の前が真っ黒色に変わった。ショックで人生初めて倒れてしまう。ベッドの上で点滴を打たれながら出産前日を思い出した。もうすぐ子供に会える、この世には綺麗なものがたくさんある、一緒にたくさん見にいこうねとよくお腹に向かって話していた。期待と希望に満ち溢れていたあの幸せだった時間はなんだった の だろうか。私はもう、二度と笑うことが許されない人生に突入するのだと確信した。
そして、綺麗な体で生んであげられなくてごめんと一晩中娘に泣いて謝り続けた。
これから娘には険しい茨の道が待っているだろう。強く生
きてほしい、奇跡を自ら起こ
せる子になってほしいという夫婦の願いからハワイ語から「 まな」と名付けた。


その一方で、私は娘の将来が全く見えなかった。
 

退院後、人生で初めての子育てがスタートした。目が見えない子供をどうやって育てたらいいのか全く分からない。加えて私にまっていたのは、「おめでとう」の祝福ではなく「可哀そうに」という同情なのか、慰めなのか分からない言葉がけをされることであった。人生で最も祝福されるこの時に、誰からもお祝いされないこの苦痛は、娘は生まれてくるべきではなかったのかとさらに自分を責め続けた。この頃何度か、「ママ、見て見て、これ可愛い!」と言いながら、目が見えている娘が夢にでてきた。「なんだ、見えないのが夢だったのか」と言って目が覚める。おそらく毎日毎日神様に見えるようになりますようにと奇跡を祈っていたからだろう。祈っても娘の目が治るような奇跡は起きない。目が治るような奇跡は起きない。


毎日、私は娘の「明日」を諦めることが多くなっていた。
 

しかしここから様々な出会いによって私の考え方は変わっていく。娘が生まれて1か月後、夫がブラインドマラソンを楽しむ団体を見つけた。どうやらガイドランナーを募集し後、夫がブラインドマラソンを楽しむ団体を見つけた。どうやらガイドランナーを募集している。もともと中距離の陸上選手であった夫。強みを活かして娘のために何かできるのではないかとすぐに参加をした。そこにはたくさんの視覚障がいの方々が生き生きと楽しそうに走っている姿があった。パラリピアンの選手も多数いて、みんなの人気者である。初参加の方は必ず自己紹介しなければいけなかったため、夫は娘の話をした。
 

するとみんなから「おめでとう!宝くじを引き当てましたね。こっちの世界もおもろい
将来めっちゃ楽しみやな」と大阪弁で喜んでくれ、思わず拍子抜けをしてしまった。

 

何が「楽しみなこと」なのか、この時の私はまだ理解できていなかった。

一筋の希望の光がぱぁと差し込んできたような感じがした。初めて「将来楽しみ」と祝福の言葉を言われ、福の言葉を言われ、娘は生まれてきてよかったんだと、心から笑顔になっている自分は生まれてきてよかったんだと。
 

もう自分を責めるのは違うのではないかと救いが見えた気がした。
 

そして、大阪に、0歳から通える視覚障がいの未就学児向け教室があるとを知る。名前は希望教室。月、水、金の週3回。10時から15時までのお弁当持参。すぐに電話をしたら「来なさい」と言われ、娘が3カ月を迎えた7月の上旬、梅雨が明けて雲一つない真っ青な晴天の日に初めて参加をした。

藁をもすがる思いで扉を開けると、そこには大笑いしている元気なお母さんたちが5人いた。0歳~3歳までの未就学児たちが元気に動きまわっている。全盲の子供は娘だけか・・・と残念に思っていたら、ほぼ全員が全盲とのこと。驚いてひっくり返りそうになった。見えないと動けないと思いこんでいた。

 

先生からここで大切なことを教えてくれた。

 

「子育ての基本は見える・見えない関係なく本質はすべて同じ。特別と考えてはダメ。目が見えない子供に対してのアプローチ方法が少し違うだけ。見えないから「できない」のではなくて、「やらせてない」からできないだけなの。だからまずはお母さんの思い込みを手放すことが子育ての第一歩ね」と「目が見えなくても私の教え子、いろんなところで活躍してるわよ。NASAで働いている人もいるし、大学の先生もいる。見えないくらいですべての可能性、お母さんが決めつけちゃだめよ」

 

ハッとさせられた。私自身の思い込みをなくすことから始めなければいけない。この時ふと、娘を出産してからずっと「可哀そうに」と言葉をかけられていた。その言葉にとらわれているのは私自身で、私自身が「見える・見えない」にこだわりすぎているのではないかと自問自答をした。

 

私自身が娘を「可哀そうな娘」とみていたのではないか?

子供の可能性を伸ばしたい、この思いでこの教室には、保育園に入園まで通い続けた。目が見えない子供の子育てには言葉と体験が必須である。見て真似る模倣ができない。そのため、何をするにも常に実況中継は欠かせず、ぼうっとする暇がなかった。特に理解をさせる点においては苦労の連続であった。

例えば離乳食。娘は全く食べなかった。何をどう工夫しても食べない。諦めて一度グーグルで検索してみた。すると「お母さんが美味しそうに食べていたら子供は食べます。笑顔みせて下さい」との回答ばかり。「見て」とはなんて便利な言葉なのだろうと痛感する。

他にも見えない子供にとっては「あれは何?」などの欲求や好奇心が育ちにくいと言われている。そのため、ほっておいたらジーっと動かない。見えないから動けないのではなく、動く動機がないことが原因であった。どうしたら「動きたい」「知りたい」などと思うのか?

 

仮説→検証と試行錯誤トライの日々。

 

大変であったが、お母さんみんなで「こうしてみたら?」「これならできた!」とアイデアを出し合っていく過程はとても楽しかった。

気が付けば出産のときに想定していた絶望の人生とは無縁の生活をしている私がいた。

 

先生がよく、「いつのまにか子供はできるようになるけれど、模倣ができない視覚障がいの子供は勝手にできるようにならない。言い換えたら、子供の「できた」瞬間に立ち会えるんやで?一つ一つの瞬間が宝物や。これは選ばれたお母さんしかできん。みんなラッキーや」言っていた。先生の言葉は無意識の偏見から解放されていった。

 

 私が思っていた育児は、誰にインプットされた育児だったのだろうか?

そして、娘は1歳半の時に突然、コップの水があふれだすように、言葉を話し始めた。話しだすタイミングで言葉の理解が追い付き、一人で自由に動こうとする。いろんなものを触って、物の配置を記憶していく。結果、空間認知能力もついた。3歳になる頃には、誰かの話を聞く集中力はずば抜けていた。情報整理については目を見張るものがあった。

その後、保育園・幼稚園といろんな発見があった。

ある日先生から「運動会に向けて玉入れの話し合いをみんなでしました。そしたら一人の女の子が、ねぇまなちゃんがボール入ったかどうか見えないよね?分かるように鈴つけようとか、アイデアだしてくれたのです。そしたら、これはどう?とかアイデア大会になって、保育士やって初めての経験でした」と言われた。

誰かから助けられるばかりの人生であると生まれたときに思いこんでいたが、娘の存在が誰かの気づきに影響を与えていることを知った。

娘の価値を自分自身が一番分かっていなかった。諦めていたのは私だった。

もはや目が見えないことは可哀そうではない。

 

視点を変えれば、たくさんのヒントを持っている非常に突起な特性なのだ。目が見えないことは、模倣が必要とされる場面ではマイナスかもしれないが、記憶力が試される場面では強みにも変わる。障がいとは、つくづく娘を生んだ時に私自身が思い込んでいた「無意識の偏見」だったのだ。

 これまでの私の人生はあまり深く考えなくても生きてきた。でも、その「無意識」で誰かを傷つけてきたのではないかと振り返ることができるようになったのも、娘の同級生の言葉を聞いてからだ。

全盲の子供だけでなく、障がいの子供を持つと必ずぶつかる壁が、仕事と子育ての両立だ。夫婦共に出張も多く、スケジュール管理に加え、何度も眠らない子供を夜中まで授乳。 

その後、始発の新幹線の中でぐっすり寝てから仕事は当時私の日常であった。自宅から車で1時間以上かかる祖母に協力を求めながらなんとか切り抜けまさに毎日ギリギリ、崖っぷちで生きているような感じであった。

そのため、一度だけ本気で仕事を辞めようかと悩んだことがあった。

 

しかし、将来の娘との会話を想像しその選択はしないと決めた。娘は必ず将来私に質問をするだろう。「ママはどうして働いてないの?」「ママ、仕事をあなたのためにやめたのよ」 

この「あなたのため」の意味の本質は「見えなくて可哀そうだから」やめたという意味が含まれているような気がした。だから娘は必ず察するだろう。「私って可哀そうと思われていたの?」と。だから、仕事は何があっても絶対続けると誓った。

 そういって仕事をしていく上で気が付くことがあった。仕事相手の方から、「仕事の本質に気づくことができました」と言われるようになってきたのです。私自身は仕事のやり方を変えているつもりはなかったのに。何が変わったのだろうか?

 

 そうだ、娘、だ。

娘の存在こそが私を変えたのだ。娘が私を「人間として」育成してくれているのだ。これまで私が娘を苦労して育てているのだと思っていた。違っていた。だから娘の将来を諦めたり、希望を見出そうとしていたり。それは私がまだ親として未熟だったのだ。娘が生まれた時、私自身が「親」としての人生のスタートだったのだ。悩んで当然、手探りが当然。娘が私を親として教育してくれていたのだ。そんなことにようやく気が付いた。さらに娘は私を「親」として以上に、人間としての成長をプレゼントしてくれづづけているのだ。

 娘の価値はまだまだ未知数のはず。それは障がいのあるなしではなく「人間」の可能性なのだ。

 

神様はまだまだ未熟な人間だった私の成長のために娘をプレゼントしてくれたのだ。英語で障がいのことを「GIFTED」ということを知った。その意味は障がいを良い意味でとらえようとしているのかとネガティブに思っていた。

GIFTされたのは、娘にではなく、私や夫、家族・友人など娘に関係する人なのだ。娘に関係してくれる人はみんな感謝をしてくれる。「まなちゃんと出会えてよかった」と。

この感謝は、娘が成長していくにつれて増えていく。こんな幸せの毎日が明日も来るのだ。

何を私は諦めていたのだろうか。

娘の将来を諦めることは、親としての自分の将来を諦めることだったのだ。

こんなことですら、気が付かなったのか。

いろんな人の手を借りながら一人で道に迷いながらも証書をもらいに行った娘をみて、同時に、その卒業証書は私にも「親」として娘からもらえた気がした。笑顔でこちらに向かう娘をたまらなく誇らしく感じ、抱きしめた娘の存在に「将来」ではなく「未来」をかんじた。

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